我が名はなんとか菜である!

主に技術系の記事を書きますが、ポエムも混入します。

SNS による社会実装の理論と実践 ~ X やってるのはお前だけ

この記事は スラム社会実装の理論と実践〜もうみんな苦しんでる。苦しんでないのはおまえだけ〜 の9日目の記事です。

8日目は Lugendre 氏の オタクも紅茶を飲め2023年12月号 Part1 です。
ちなみに現時点で Part 2 はまだないらしい。 まだ?

はじめに

僕は2023年7月4日に以下のツイートを最後に Twitter への投稿をやめた。

それ以前にも何回か離脱を検討していた時期はあったが、やはり10年以上続くサービスだけあって、サードパーティによる優秀なクライアントアプリやツールといったエコシステムが整備されていることもあり、なかなか便利さから抜け出すことが出来ず、乗り換える期を逸していた。

上記ツイートの通り、確かにやめた最後の一押しは TweetDeck 有料化ではあったのだが、それ以前から僕は Twitter を始めとした現代の SNS に「諦め」の感情を持つようになっていた。

ところで、本記事が参加しているアドベントカレンダーは社会実装についてがテーマらしい。(別に何書いてもいいらしいけど)
僕にとっての社会とは何かを考えたときに、SNS についてというのはまさにぴったりのテーマだと思った。

いい機会なので、この記事では僕が Twitter を辞めるに至った僕の感情を、分析を交えてつらつらと書くことにする。
懺悔、あるいは反省と言えるかもしれない。
昔話も多分に含まれるので、インターネット老人の戯言と思ってもらって構わない。

なお、本記事では X のことを Twitter と敢えて呼ぶが、これは僕がこの SNS への投稿を辞めたときはまだ「Twitter」という名前だったからだ。
よって、ポストもツイートと呼ぶし、その他の用語も Twitter 時代のものを使うこととする。

SNS による情報崩壊

人というのは、自らが必要としている以上の情報を流し込まれると思考が停止する生き物だ。
SNS で流れるたくさんの人が書いた文章は、それらを順番に読んでいくだけでも自らが必要としている以上の情報が手に入ってしまう。

かつて SNS とは、他人の書いた他愛のない文章をなんとなく眺めながら、たまにそれに対してゆるーくコミュニケーションを取るような場所であったと記憶している。
おはよう、おやすみ、ただいま、謎の叫び、大喜利、散歩中に見かけた風景や猫や食べた食事の写真、ネットのどこかで拾ってきたネタ画像やコラ画像・・・
そういった無意味で、だが無害でおだやかな情報で溢れていた。

今の SNS はどうだろう。
SNS に限らず、人の集まる場所というのはそれぞれ違った文化が存在し、それによって雰囲気も様々異なるはずであるが、X を始めとした「人の多い」SNS の代表格である FacebookInstagram はどこも「似たような」雰囲気が漂っていると感じないだろうか。
これはどこの SNS も「インフルエンサー」を中心としてインプレッションを集めるレコメンドシステムが搭載されているからだ。
今の SNS は、かつてインターネットの人々が嫌った「マスメディア」と同じような一方的な情報の流れを恣意的に作り出し、また人々もそれに何の疑問も抱かずに乗っかるようになった。

そして、そこにいる人々はそこに「乗っかって」いることに気が付かない。
有名人のもっともらしいポストを何も考えずにリポストし、引用し、リプライを付け、さらにそこから他人がまた的外れで有害なリプライをぶら下げ、それがまた拡散されていく。

そしてそういった情報は本来、それらを目にする人たちにとっては「不要な」情報だ。
文章を読むのに慣れていれば、意図を読み取り、対応することは比較的容易であろうと思われるが、残念ながら文章を正確に読解できる人というのは限られているといわれている。

つまり、大半の人にとって現代の SNS の情報というのは「無意味」なのだ。
しかし、ここでいう「無意味」は、先の穏やかな時代のものとは質が変わっている。
それは「その人にとって無意味であるだけ」ということである。
つまり、人によってはその情報が「意味のある」ものになってしまうということだ。
そして、その情報はただの情報であるが故、なんの性格も持たない。
発言者にとってのただの冗談が、ある人から見ればとてつもない差別を受けていると感じるかもしれないということだ。

「炎上」というのはこの情報の非対称さが起こしているのだと僕は考えている。
そして僕は、この炎上の質すらも変わっていったのを肌に感じるようになった。
次にはその理由と、それに伴って起きた自身の変化を述べていく。

炎上の質の変化と反省

炎上が起こる原因とは、簡単に言えば書き手と読み手双方のリテラシーの欠如である。
ある投稿が炎上するとき、つい内容や書き手のプロフィールに目が行きがちであるが、当然ながらその投稿も拡散されなければ「炎上」など起こり得ない。
ボヤが上がり始めているところにわざわざ薪をくべるような行いに非がない訳が無いのだ。
そして、SNS ではボタンを一つ押すだけで薪をくべることが出来てしまう。

かつては、こういった悪意に対しては「ブロック」や「ミュート」で対応することが出来ていた。
そういった発言をするアカウントそのものや、そういったツイートをわざわざ拡散するアカウントをブロックすればそれで済んだからだ。
ところが、Twitter にはある時から「おすすめ」というタイムラインが現れるようになった。
おすすめTLについてわざわざここで説明をすることはしないが、このおすすめTLによって、人によっては不要な不特定多数のアカウントから発信された情報がタイムラインに混ざるようになってしまった。

こうなってしまうと、一つ一つ手で対応していくのは非常に難しくなってしまう。
やがて、そういった情報をなんとなくRTしてしまうようになっていく。
これはまさに「必要以上の情報を流し込まれた」結果起こる思考の停止と言えるであろう。

しかし、こういった悪意を延焼する行為は、本人が思っている以上に重いものであると自身への戒めも込めて言おうと思う。

かつては僕は、自分にとって不快な情報を頻繁に流すようなアカウントは積極的にブロックするという運用を行っていた。
ところが、繰り返すが Twitter にはある時から「おすすめ」というタイムラインが現れるようになった。
僕は自分自身が得る情報はすべて自分がコントロールしたいしするべきであるという考えに基づきおすすめTLを見ることは殆どなかった。
だが、フォロイーの大半はそうではなかったようで、僕が見たい情報から逸れたツイートがRTによって「ノイズ」としてタイムラインに溢れるようになってしまった。

かつてはそういった有害な情報を流すアカウントというのはごく一部であり有限だったので、その有害アカウントやそのフォロワーを自分のフォロワーを除いて全員ブロックするようなツールを動かして対応していたのだが、この「おすすめ」から無限に害悪アカウントが流入するようになり、とうとうブロックが追い付かなくなってしまった。

しかしタイムラインがこのようになってしまった原因を相互やフォロイーに押し付けるつもりはなく、これは僕自身が運用を失敗したせいであるということは強調しておく。

在りし日の自分自身を思い出すと、以前はこうではなかったように思う。

自分のフォロワーの属性を考え、あまり関係のない話題のRTは避けるようしていなかったか?
多少なりとも、この情報を見た人が不快になるようなツイートのRTは避けるような意識が、僕の中に存在していたのではないか?

振り返ってみればTLにそういったノイズが溢れるにつれ、僕自身もそれに取り込まれてしまったように思う。
そういった自身の意識の変化に気が付かず、タイムラインを汚していたのは、まさに自分自身であったのだ。
冒頭で述べたように、自らが必要としている以上の情報を流し込まれ、僕自身も思考が停止してしまっていたのだ。

そういった状況を自覚し、取り返しのつかないことになっていたことに気が付いた頃には、すでに Twitter 全体がそのような空気に包まれていた。

悪意が絶えずタイムラインを席巻し、差別の再生産を行うようなツイートや左翼系アカウントの日本憎しのツイートがRTされ、それに付いたリプライがまた拡散されていく。

そして、あのイーロン・マスクによる度重なる改悪によりもうかつての Twitter が戻らないことを確信し、冒頭のツイートを最後に Misskey.io と Bluesky へ移住するに至った。

元々僕がフォローしていた聡明な人たちの中にはもっと早い段階で Twitter に見切りをつけて移住していった人がそれなりの数いた中で、僕の見る目と行動力のなさは未だに反省するところである。

まとめ 今とこれから

あえて移住先の SNS を僕が宣伝したり褒めたりすることはしない。
もちろん、 Misskey 開発の syuilo 氏や io の村上さんを始めとした運営の皆様への感謝はしてもし切れないほどではあるのだが、 この流れでは結局 Twitter の代替として使っているのかと思われても仕方がないからだ。

しかし、僕はここで一つの表明を行いたい。

ここまでの反省を踏まえて、自分自身が悪意に飲まれないために、また、悪意を拡散してフォロワーを悪意にさらさないために、これからは以下のような心構えをしたい。

  1. そもそもあまり SNS に関わらない
  2. 同意の文脈以外で RT をしない
  3. 例え同意するとしても、自分にあまりに関係のない話題には触れない
  4. 自分に見合わない承認欲求を満たそうとしない
  5. 悪意の塊のような文章はこういうブログに書く

僕も所詮人間であるので、ここに書いた方針をいつも守れるとは思わないし、これから考えが変わらないとも限らないが、出来る限りこの方針は守っていくつもりである。

おそらくだが、これは僕自身以外にも当てはまる話なのではないかと思っている。
皆が自身が処理しきれる情報量を自分でコントロール出来るようになり、合わない人とは関わらない、話さないというのを徹底できるようになれば、パブリックな SNS というのはもう少し過ごしやすい場所になるのではないかなと思う。

まあ、残念ながら(本当に残念なことだが)、すでにインターネットというのは文章が読めない人たちのほうが圧倒的多数の空間である。
文章でやり取りするのが基本である世界で、文章が読めない人が支配するという矛盾した構造は、ある意味とても人間らしいものであると考えれば、ある程度あきらめが付くのではないか。

そういった社会の中で自分を守れるのは、現実同様やはり自分自身なのだ。

こういった社会を実装するために僕が出来ることは、こういった理論を一つ一つ組み立てていくことだと信じてこの記事を終わる。

おまけ

今日の記事は以下の本に多大な影響を受けています、読め。

「正しさ」の商人 情報災害を広める風評加害者は誰か


10日目は itmz153 氏の Taylor-Greenの流れとElmer入門 です。